「………暗いね」

「ええ。ケセドニアの裏路地みたい。でも、なんだか………上手く言えないけど、寂しいところね。ケセドニアより酷い気がするわ」

 貧民街に足を踏み入れたユフィとスザクの二人は、ぽつりと呟いた。

暗く薄汚れた貧民街は、ホド戦争以後はケセドニアのスラム街で暮らしていた彼らには見慣れた光景ではあった。しかし貧しいながらもたくましく、雑然としていたケセドニアと比べると、このダアトの貧民街はなお一層侘しく感じられる。

「あれのせいもあるんじゃない? ほとんど日が当たらないみたいだし」

 頭上を見上げたスザクがそれを指差した。ダアトの中央に聳える大聖堂の尖塔―――そこからダアトの外壁に根のように伸びるオブジェ。それは裾野に広がる街並みを守っているようにも、また閉じ込めて逃がすまいとしているようにも見える。外壁付近に位置し、建物同士の狭い裏路地が迷路のように広がるこの辺りは、ちょうどそのオブジェの真下に当たるのだ。ただでさえ陽が入りにくいというのに、オブジェの落とす影がますますそれを助長している。

「そう、かもしれないわね。………でも、それだけじゃなさそう」

 辺りを見回しながら、ユフィは呟く。

先ほどからちらほらと見える人影は痩せこけた大人たちだけで、その彼らも路地の端に無気力に座り込んでいる。これがケセドニアであれば、足を踏み入れた見慣れらない人間である彼らに対し、もう少し何らかの反応を示すだろう。それにも関わらず彼らは申し訳程度に視線を向けただけで、興味なさげに視線を逸らす。ギラギラと瞳を輝かせた孤児も、ガラの悪いゴロツキも、目に着く範囲内では見受けられない。

 ―――おそらくそれは、ここにいるのがオールドラントの人々にとっての指針に等しい『預言』に見捨てられた者たちだから、だろう。ましてこの街に集まるのは、ケセドニアのように己の才覚で事業を起こそうと考える者たちではない。有り金を奪われ貧民街に流れ着いたような者たちは、乏しい金をはたいて預言を求め、それに縋ることで生きているような者たちが大半だ。『決められたこと』に諾々と従うことに疑問を覚えず、むしろをそれこそをよしとする者―――底辺に堕ちてなお這い上がろうとする気力すらも、彼らには枯渇しているのかもしれない。

 ―――だが。

「………なんか、子供が全然いなくない? ケセドニアなら、孤児とかの方が多いのに」

 親に捨てられた子供、親を戦争で亡くした子供―――ケセドニアの貧民街にたむろする顔触れは、圧倒的に子供が多かった。ダアトとケセドニアではもちろん事情が違うとしても、ここまで子供の姿が全くないというのはやはり不審である。

「………誰かに聞いてみる? あんまり奥の方まで入り込むのも危険かもしれないし」

 かつてに比べれば格段の進歩を見せて、ユフィがそう提案した。元来無鉄砲な性質の彼女も、『漆黒の翼(エル・デュ・ノアール)』の一員として行動しバダックらに指導を受けるうち、多少の状況判断は出来るようになっていた。団員の生還率、依頼の達成率―――後先を考えずに行動してプラスに働くことなどほとんどない。

「そうだね。………僕が話しかけてみるよ。ユフィは僕の後ろにいて」

 今の彼らは皇女と騎士ではないが、それでもスザクにはより危険な立場に立つのは自分であるべきという考えがある。かつての力関係がなかったとしても、スザクが男性でユフィが女性である以上、彼は頑として譲らないだろう。

「あの、すみません。少し聞きたいんですが」

 スザクは手近な人間に目星をつけると、巡礼用のフードをずらして話しかけた。そのままでは余りに怪しすぎるとの配慮だったが、表情からして無気力この上ない彼らに対し、実のところ対して意味がなかったかもしれない。スザクが話しかけたのは40絡みの男性だったが、彼は緩慢に顔を上げただけで、すぐに俯いてしまう。

「え、あの、だから………」

 聞きたいことが、と困惑も露わにスザクは眉尻を下げた。それに焦れたユフィが、身を乗り出すように声を上げる。

「あのっ、私たち、人を探しているんです! この辺りで子守唄を歌っている女性を―――」

 知りませんか、と続くはずだった言葉は、まさにその時聞こえてきた歌声に遮られた。

 ―――高く低く、のびやかに紡がれる歌。

「ユフィ、これって………!」

 スザクが驚愕と興奮に瞳を輝かせ、ユフィを振りかえった。思いがけず、懐かしい歌を耳にしたユフィは、茫然と呟く。

「まさか………ユリアの譜歌?」

 彼女の生家―――ダレット家が代々歌い継いできた、ユリアの遺した歌。歌詞と、そこに込められた意味―――象徴を正しく紡いでこそ、初めて意味をなす歌だ。幼くして故郷を失くし、親を亡くしたユフィも、従姉であるノワールからこの歌を教わっている。

「ノア姉様………」

 呟きながら、既にユフィの足は歌声が聞こえてくる方角へと動き出している。その歩みが早足に、そして小走りになるのに、時間はさほど掛からなかった。

「ユフィ! 待って、一人じゃ………!」

 焦ったように声を上げ、スザクは慌てて後を追った。―――思い出したように先ほど尋ね事をした男性に頭を下げたが、おそらく視界に映ってもいないのではないだろうか。

 しかしスザク自身ももはや彼らのことなど意識からはじき出して、駆けだしたユフィの後を追った。見え隠れする桃色の髪を追って、入り組んだ路地を奥へ奥へと入っていく。

「! ユフィ………」

 細い路地の先―――そこだけぽっかりと開けた空間を前に、ユフィは立ち尽くしていた。この辺り一帯の貧民街は、大聖堂の度重なる改修とそれに伴う街の再開発の際、取り残された地域だとルルーシュが言っていた。目の前の空間も、おそらくかつては住民たちが集い立ち話などに興じた広場だったのだろう。中央付近にある崩れた石組みと朽ちた木片は、枯れた井戸の名残だろうか?

 その向こう側―――基礎と一部の壁だけが残ったかつての教会跡の階段付近に、彼らはいた。

 汚れた服に身を包んだ、くすんだ桃色の髪の女性。その髪がかつてはユフィ同様鮮やかな色をしていた事を、彼らは知っている。心労で色が変わったのでなければ―――もっとも髪が抜けたり白髪になるならともかく、色が変化するとは聞いたことはないが―――貧民街での生活のせいだろう。ケセドニアの底辺で暮らした数年間で、ユフィたちも身に覚えがある。

 女性―――ノワールの周囲には、薄汚れた身なりの子供たちが集まっていた。10人ほどもいるだろうか。子供たちは階段や道端に膝を抱えるように座り込んで、ノワールの紡ぐ歌声に聞き入っている。

 第一の譜歌、第二の譜歌―――そして第三の譜歌。

 乾いたケセドニアの地で、ノワールから教わった旋律を思い出し、ユフィもすっと息を吸う。

 天空への祈り、再生を願う第四の譜歌。―――ノワールと離れ離れになる直前、最後に教わった歌だ。

「――――っ!?」


 自らの歌声に寄り添うように聞こえてきた声音に、ノワールははっと息を呑んだ。誰何の声を上げようとして、彼女は泣き濡れた顔で立ち尽くす、見覚えのある少女に気づく。

「ユフィ………なのかい?」

 恐る恐る、ノワールはそう問いかけた。ユフィは声を出すことも出来ず、ただただそれに頷く。

「ユフィ………」

 立ち上がったノワールは、声にならない言葉に咽喉を詰まらせた。会えて嬉しいと、立派になった姿を見て嬉しいと思う一方で、こんな自分を見られたくはなかったと我が身を抱きしめる。

彼女がケセドニアから連れ去られてから―――もう6年が経つ。

まだ幼い、8歳の子供でしかなかった彼女の従妹、ユーフェミア―――本当は、どうしているか不安だった。サヨコやスザクがいる、一人ではないと言い聞かせ、けれど自分のように連れ去られ、酷い目に遭わされていないかと案じていた。

あの日―――ユフィたちと離れ離れになった彼女は、キングの元からローレライ教団の高官に売り渡された。グランコクマの教会に赴任したその男に連れられ、グランコクマへと連れていかれたのだ。

そこから抜け出してケセドニアに戻ろうとして、誤ってダアト行きの船に潜り込んだがために、ついには遥か海を隔てたこんなところまで来てしまった。密航者として捕まった後は、ガラの悪い男たちに娼館に売られて働かされて―――稼いだ金でようやく自由を買い取れたのは、まだほんの数か月前のことだ。無一文で放り出された彼女には行く当てもなく―――そんな頃に、この子供たちと会った。

経済的な理由から親に捨てられた子供、親を亡くした子供。10歳にもならない子供たちは、彼女の庇護すべき従妹の姿と重なって見えた。その従妹も彼女が月日を経たのと同様成長していることを頭では理解していたが、頼られ、甘えられるのは嬉しかった。ボロキレのようになった自分でも、まだ必要としてくれる相手がいるのだと―――。

けれどそんなノワールの葛藤を知る由もないユフィは、ぽろぽろと涙を零しながら、懐かしい従姉の元へと歩き出す。

「ノア姉様、やっと………会えた」

 周囲の子供たちが、立ちつくすノワールを守るように立ちはだかる。けれどその子供たちも、明らかに血縁を感じさせるユフィの容姿に、戸惑った表情を隠せない。

 手を伸ばせが触れられる距離まで近づいたユフィに、ノワールは恐る恐る手を伸ばした。

 滑らかな頬、きちんと手入れされた柔らかな髪―――ホドの崩落から共に逃げ延びたサヨコたちが守り、慈しんでくれたのだろう。けれどその菫色の瞳には、優しさやたおやかさだけではない、確固たる意志の光がある。

「ユフィ………大きく、なったんだね………」

 頬を滑ったノワールの指先が、ユフィの肩に伸びる。汚れた自身を厭い、抱きしめようとして躊躇ったノワールに、ユフィは自分から抱きついた。

「ノア姉様………ノア姉様………」

 『かつて』の記憶を思い出しても、ノワールはユフィに取って大切な従姉だった。

フェレスで暮らした、幸福だった頃の柔らかな手―――ケセドニアで、慣れない暮らしにあかぎれやひび割れを作りながら、彼女を慈しんでくれた手。ルルーシュや『かつて』の知己を愛し、懐かしく思うのと同様に、ノワールもユフィにとって大切な家族なのである。

「ユフィ………」

 自らに抱きついて泣きじゃくる従妹を抱きしめて、ノワールも泣いた。幾度となく流した、悔しさや憤りを噛みしめるための涙ではなく―――まるで、幼い子供のように。

 彼らは長い間、抱きしめあったまま泣き続けていた。




Darkest before the dawn

縒り合う糸・2


 

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