「あ………あ、ぁあ………っ」

 滂沱の涙を流しながら、ユフィはふらふらと歩き出した。

彼女の瞳に映るのは、ただ一人だけ―――壁伝いに歩いていなければ、たちまち暗闇に足元を危うくしていただろう。いや、今だとて、傍目には酔漢か狂人のように映っているに違いない。

けれど、周囲の景色も人間も、その何もかもが今の彼女にとって『背景』に過ぎなかった。今の彼女にとって大切なのはたった一つ―――たった一人だけ。

(………、………、………………、………………!)

 ただ一人の名前だけを呟きながら、ユフィは必死に手を伸ばした。そのつもりだったが、紡いだ名前は言葉にならずか細い嗚咽が漏れるだけで、伸ばした指先も空しく宙を掻く。

 もどかしくて悔しくて―――けれど、そんな彼女に向けられたのは、驚愕に見開かれた紫の瞳だった。

「………ユ、フィ………」

まるで鎖か茨のように、あるいは卵の殻のように彼女を阻んでいた見えない何かは、ただそれだけで朝日の前の氷のように解けていく。

「………っ、ルルーシュ!」

 ようやく辿り着いた名前を口にするだけで、まるで羽でも生えたかのように身体が軽くなった。飛び跳ねるように駆け出して、精一杯に手を伸ばす。

驚いた声、困惑した顔―――視界一杯に映るそれが涙で霞んでいくのがもどかしくて、ユフィは大声で泣きじゃくった。

 

 

 

※※※

 

 

 

「イッヒッヒ、さすがは旦那方、お目が高い」

 小柄な身体をさらに屈め、にぎにぎと揉み手をしながら交渉している後姿を見、ルルーシュはひっそりとため息をついた。

(………どこからどう聞いても悪人笑いなんだがな………)

 もちろんルルーシュが指しているのは、目の前で甲高い笑い声を零す自称『しがない商人』のことである。自分の高笑いではない―――が、傍らでむっつり口を噤んでいる又従姉がルルーシュの内心の声を聞けば、まじまじと見下ろしてくれたに違いない。

 しかし今そのジョゼットは、不快そうな表情を俯いて隠しながら、自分たちの身柄を賄賂にする交渉を黙って聞いていた。勝気でやや気の短い彼女にはおよそそぐわない行動である。もちろんルルーシュだとて、自分を『幼女』扱いした上その手の輩に売り渡そうとするなど言語道断―――常ならば何らかの報復に出ていただろう。あるいはこの場で弱みを握り、脅しのネタを探すくらいはする。

 けれど今のルルーシュはジョゼット同様、何をするでもなく目の前の交渉を見守っていた。それもそのはず―――無事に取引が成立し、彼らの親玉の元に連れて行ってもらうのが彼らの目的なのである。

(ルルーシュ、バダックは予定通りに?)

 怯える振りで身を寄せてきたジョゼットが、声を出さずに囁いた。ルルーシュはそれにこくりと頷く。

(合図さえあれば、すぐにでも踏み込める手筈だ。………どちらに送られるかは、この男の交渉次第だがな)

 目の前の男―――アスターが彼らを無事キングへの貢物にしてくれれば、キングの屋敷へ。そうでなければ、キングが関与していると思しき人身売買組織のアジトにでも連れて行かれるだろう。いきなり娼館へ、という可能性もなくはなかったが、そうなった場合脱走して最初からやり直しというところだろうか。二度手間になるため、できれば遠慮したい展開である。まあ、先ほどの男たちの会話から察するに、キングに今晩『献上』するための女を必死に探していたようだから、十中八九キング自身の元へ運ばれるだろう。

 渡りに船のタイミング差しだされた少女たち、それも滅多にいない上玉とあって舌舐めずりせんばかりの表情の男たちを見やり、ルルーシュはうっすらと目を眇めた。

(………下種どもが)

男たちはルルーシュが心底嫌う類いの人間であり、また、このケセドニアのいわば膿のような輩でもあった。

 マルクト・キムラスカの両国の国境に位置する商業都市ケセドニアは、商人ギルドの幹部たちによって運営されている。今のギルドの長は自らをキングと呼称しており、ホド戦争後に飛躍的に富を築いた大船主であるが、同時に数々の後ろ暗い噂の持ち主でもあった。彼自身が無類の女好きで、複数の情婦を侍らせている―――などというのは可愛いほうで、彼の所有するホテルの一室では夜毎浚われてきた女たちが取引されているだの、真っ当な人々が眉を顰めるような夜会が開かれているだの、枚挙に暇がない。

 そしてもう一つ、キングに関してまことしやかに囁かされる重大な噂がある。

キングは確かに多くの船を持つ商人だが、彼が扱う品やその規模から推測する限りでは、さほど利ざやはよくないはずだった。独占して値を吊り上げているわけでもなく、有力な商人には違いないが、ケセドニア随一と呼ぶには語弊がある。

そのはずだったが、現実にはキングはケセドニアで最も羽振りのよい商人であり、金や女をばら撒いては利権を買い漁っている。

ではそのための金は、一体どこから来ているというのか。

―――そして、キングが台頭してきた頃と前後して、ケセドニアの裏社会で爆発的に広まった常習性の高い麻薬。そこに何らかの関連性を見出すのは自然な流れだった。難民たちを中心に広まったこの麻薬のせいで、ケセドニアの治安は戦時中よりも悪化し、薬物死や薬代欲しさの喧嘩や強盗殺人と、死体の見つからない日はないほどである。

他人を麻薬付けにして富を手にし、自らは豪遊する男―――そのキングの部下、それも後ろ暗いことに従事するゴロツキであれば、その品性も押して知るべし、である。まあ、そんな相手だからこそ、彼らを叩きのめして痛めつけることになんら良心の呵責を覚えることもないのだが。

とはいえ、彼らの目的は末端のゴロツキを締め上げることではない。

キングの関与している人身売買組織、そして薬の売買ルートの摘発。

それが彼ら―――ギルド・漆黒の翼(エル・デュ・ノアール)が依頼された仕事だった。多少の伝手があるとはいえ、駆け出し同然の彼らには無謀とも言える大仕事だが、これを成功させれば彼らはケセドニアで少なからぬ影響力を持つことになる。

(このあたりにはバダックの顔が利くのはありがたいが、キムラスカが出張ってくると拙いからな。それまでに足場を固めたいところだが………)

 バダックは結婚して拠点をバチカルに移すまで、ケセドニアでは名の知れた傭兵だったらしい。ザオ砂漠の隊商の護衛を主に引き受けていたこともあり、『砂漠の獅子王』との異名で知られていた。今回、協力者である商人の男―――アスターと繋ぎをつけたのも、待機場所にいる突入部隊を集められたのも、彼も顔があってのことだ。

 しかしそのバダックは、バチカルではお尋ね者として追われる身だった。彼は5年前、とある事情からバチカルで諍いを起こし、殺人を犯しているのである。

 街の外での殺人は私怨でなければ罪に問われないとされているが、バダックが誤ってのこととはいえ人を殺してしまったのは、バチカルの王城前だった。当然罪に問われ、彼はバチカルから追放されている。バダックが自治区であるケセドニアで傭兵をすることをキムラスカが咎める道理はないが、それでも彼が起こした諍いの理由をキムラスカが知っていた、あるいは後に知ったとしたら、バダックの存在を危険視しないとも限らない。キムラスカが外に目を向ける余裕を取り戻す前に、多少の無茶をしてでもケセドニアでの足場を固め、バダック頼りの現状を改善しておきたいというのが正直なところだった。―――ケセドニアの混乱はもはや目を覆う段階に達しており、これ以上放置しておけないということもあったが。

(人身売買のアジトかキングの元に連れて行かれたら、俺が譜術で大規模な騒ぎを起こす。それを口実にバダックが部隊を引き連れ乱入し、現場を押さえる―――か。少々捻りがなさすぎるが、まあ現状では仕方がないな)

 何しろ現状では切れるカードが少なすぎる。

数か月前に立ち上げたばかりのギルド・漆黒の翼(エル・デュ・ノアール)の実質的な構成員はバダックとルルーシュ、そしてジョゼットだけだ。後方支援としてはニーナやメジオラ高原に移した隠れ家の皆、シェリダンのめ組を中心とした技術者ネットワークもあってかなり充実しているが、実働部隊の層が薄すぎる。この部分の強化が最大の課題だが、彼らがただの傭兵ギルドで終わるつもりがない以上、安易に人員を増やすわけにもいかない。彼らの理想、そして目的に賛同してくれる人間でなければ。

(出征したアディシェスの生き残りがいればいいんだがな。後は、マルクトは………まあ、正直キムラスカと同じ穴の狢のようだしな)

 当面はこれで乗り切るしかないと、解決策の出ない思索を切り上げたルルーシュは、アスターとゴロツキたちの会話に意識を戻した。どうやら無事交渉は成立したらしい。下卑た笑いを浮かべた男の腕が無造作に伸ばされる。それに形ばかりの抵抗をしようと身を捩ったその時、誰もいないと思っていた路地の端から、すすり泣くような、あるいは呻くような声が聞こえてきた。

(何だ………?)

 明らかに尋常ではない気配に訝しげに眉宇を顰め、ルルーシュは視線を巡らせた。―――そしてそこに、思いもよらない『色』を見る。

 華やかで鮮やかな、薄紅の色。

 愛おしくて憎らしくて、憎めなくて。

 最後にその色を目にしたのはあの日、―――そう、自分が彼女を殺した日のことだ。

白い肌が、桃色の髪が、返り血に濡れて―――。

「………ユ、フィ………」

 ルルーシュは茫然と、その名を口にした。微かな呟きに過ぎなかったその声に、桃色の髪の少女―――いや、幼女は、その大きな菫の瞳に見る見る涙を溢れさせる。

「………っ、ルルーシュ!」

 幼女―――かつてルルーシュが殺した異母妹は、両手を伸ばし飛びかかるような勢いでしがみついてきた。多少の体格差はあるとはいえ、所詮幼い子供に過ぎないルルーシュは到底それを受け止めきれず、折り重なるように倒れ込む。

「ルルーシュ、ルルーシュ、ルルーシュ………!!」

 全身でしがみついてくるかつての異母妹は、壊れたレコーダーのようにただそれだけを繰り返した。

「ユフィ………君も、なのか?」

 君も生まれ変わったのか、君も記憶を持っているのか―――その問いかけに答える余裕はユフィにはなく、彼女はただしがみ付いて離れまいとするだけだ。

 そんな様子を、当事者たちはもちろん、すぐ側に立っていたジョゼット、今まさにルルーシュを連れ去ろうと腕を伸ばしていた男たち、そして彼らと交渉していたアスターも茫然と見つめていた。ジョゼット辺りは『前世』の話を聞かされているだけに見知らぬ幼女との再会劇の真相に気づけたかもしれないが、今はまだ突然の事に驚く他ないようだ。

 そんな中、一番早く我に返ったのは、大事な『貢物』を掻っ攫われかかったゴロツキたちだった。

「………んだオイ、このガキは?」

「おいガキ、邪魔すんじゃねぇ!」

 苛立たしげな舌打ちと共に、男たちは再度手を伸ばした。一人がいささか乱暴な動きで闖入者を引き剥がし、もう一人が改めて『貢物』に手を伸ばす。

 ―――その野太い腕に、次の瞬間、いずこからか投げつけられたナイフが突き刺さった。

「ぐあっ!?」

 正確に手の甲を刺し貫いたナイフに、男は悲鳴を上げて飛びあがった。

「ごっ!?」

 間をおかず、ユフィを捕らえた男の首がゴキャ、という鈍い音とともに不自然な方を向く。首の骨が折れてこそいないようだったが、口の端から泡を吹きながら男は横向きに倒れ込んだ。入れ替わりに男のいた場所に降り立ったのは、ルルーシュと同年代に見える茶色の髪の少年―――スザクである。背後から跳躍したスザクが、男の横っ面に踵を叩きこんだのだろう。

「ユフィ! 無事!?」

 かつての主であり、今生では仲間とも幼馴染とも呼べる立場の少女にスザクは声を掛けた。それに答える声はなかったが―――ユフィの肩越しに見えた見知った顔に、スザクはくしゃりと顔を歪めた。見間違いではなかったその人影に、彼は形容しがたい表情になる。

「………ルルーシュ………」

 死を、世界すらも隔てての再会だったが、それを喜んでいいのかもわからなくて、スザクはきゅっと口を噤んだ。かつて、円卓の騎士であった頃の彼ならばそれは不機嫌な仏頂面にでもなっただろうが、所詮子供に過ぎない今の身体では、ただ泣きだす寸前のそれにしか見えない。

「スザク………お前もいたんだな………」

 フレイヤで死に、ルルーシュとニーナは生まれ変わった。他に生まれ変わった者もいる可能性も考えていたし、スザクやジェレミア、咲世子たち―――道を同じくした彼らならばとも思っていた。それでもいざそれを目にすると、自分たちの死と敗北、そしてシュナイゼルの支配する世界が思い起こされて、胸が痛む。―――かつての世界を見限ることを、既に選択してしまったからこそ。

 誰もが続く言葉を見つけられず沈黙が横たわる中、どさりと重い物が倒れる音がした。反射的にそちらに視線をやれば、ゴロツキの片割れが、背後から回った腕に喉元を締めあげられ、昏倒して倒れ込むのが見える。

 その身体を無造作に転がして、咲世子はルルーシュに向き直った。いつも穏やかに微笑んでいたその顔が、何かを噛みしめるように歪められる。

「―――ルルーシュ様………」

 ルルーシュの元まで歩み寄った咲世子は、跪いて頭を垂れた。忍びでありメイドでもある彼女は、既に主を定めている。

「咲世子………」

 その名を噛みしめるようにルルーシュは呟いた。

 決して自分を裏切らなかった女性。思えば、最愛の妹・ナナリーの身柄を預けることに何の不安も覚えなかったほど、自分は彼女を信頼していた。

「―――篠崎咲世子、遅参仕りました。お怪我はございませんか、ルルーシュ様」

 再び名を呼ばれたことが嬉しくて、咲世子は記憶の中より随分と愛らしくなった主へと、微笑みかけた。




Darkest before the dawn

運命の輪・3


 

※※※



とりあえずホド組との再会まで辿り着きました。スザク影薄すぎですがまあいいや。ユフィの記憶が戻っちゃったんで今まで以上に肩身が狭くなると思います。
あ、ホド編+αではユフィは出張りますが、関係ないところではそんなに出てこない予定です。

あと基本、CP要素は少ない予定。カプ物が書きたいわけではないですし。………でもなー、本編時ルルーシュ24歳なんで、その年になってもD貞というのも少々もにょっとするというか………。スザク辺りは適当に相手見繕ってそうな気がするし、女性キャラはそういうの別に気にならないんですけど。うん、まあ、多分誰かとくっついているんでしょうということで多分裏設定がついてそう。以下、白主従絡みのカプ話なのでこそっと反転。
一応自分の基本カプがスザルルなので、ユフィと再会して色々知らされて地面にめり込むくらいに後悔したスザクがルルーシュにアプローチ→業を煮やして既成事実(てか犯罪)→ルルーシュ何となく絆される→ユフィが激怒してスザク〆る&ルルーシュ押し倒す→二人でルルーシュ共有、とか自分的には全く平気なんですが、。というかはっきり書かないだけでそんな設定になってそう。今回C様はルルーシュとカプれるタイミングで合流は出来ないんで、Cルルは無理なんですよね………。


あと、ギルドだのなんだのがこそこそっと出てきてます。文中でも書きましたけど、まあ途中経過というか、目的のための手段という感じですね。ちなみに『漆黒の翼』はご存じの通り原作ではノワールさんたちが結成してた義賊の名前です。いずれ合流するし、ということで拝借してしまいました。黒くてちょうどよかったし(おい)。そのうちバダックも改名して黒熊になってくれる予定なのでちょうどいいかと。多分バダック、六神将入りしなくなりそうです。この人何気にスペック高いし顔広いし使い勝手がいいんですよね。髭にレンタルするのが惜しいです。あー、となると代理の六神将を探してこないとですね。アリエッタの代わりに入るのは決まってるんですが。ストーリー的にいてもいなくてもあんまり影響のない奴を引っ張ってきましょうか(爆)。
あ、ちなみにギルド名、読みは一応フランス語。私は大学の第二外国語はドイツ語だったんで、あんまり自信はありませんが。
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